・「アスキーアートの法と慣習」―アスキーアートの権利関係についてのエントリー(別館「犬が目覚めた日」)

     ・「連載物の保管庫」―上記の物をまとめたもの

『しっぽのブログ: 存在するモノの法則2。人を殺してはいけない理由。』を読んで

この記事は

しっぽのブログ: 存在するモノの法則2。人を殺してはいけない理由。を読んでの自問自答です。






しっぽ氏の意見

 意識的か無意識的かは分からないが、初めのころは色んな態度をとる群集がいた。例えば、①絶対に人を殺さない②自分を守るためなら殺す③とにかくムカついたら殺す、など。
 また、群集はより多くの食料を手に入れたり、身を守ったりするために集団化するようになった。ということは、それぞれの態度を取る人々が相互に関わることになる(同じ態度を取る人々の集まりもあれば、それぞれが違う態度をとる集団もある)。よって、ここにきて本格的な自然淘汰が行われたことになる。
 そして、しっぽ氏が言うところでは「人を殺してはいけないけど、正当防衛や緊急避難はOK」という態度を取る群集が残った。(私注:もちろん、進化においてもその場の環境によって何が残るかは違うので、場所によって残る態度は変わってくる。)
 
 これは納得できる。つまり、その場の環境に対して適応できなかった態度より、適応できた態度の方が残る、ということ。意識的だろうが無意識的だろうが、適応できたものが残るというのも分かる。
 また、生物の進化の場合はその変化を自ら変えることが出来ないが、人間はその態度を自主的に変えることが出来る。よってこの場合の淘汰とは、「Aという態度をとった人間」の淘汰だけでなく、「Aという態度」の淘汰も含まれるのだろう。(私注:加えれば、態度を変えた群集の場合は、意識的にその態度を取っていると思う)



認識の違い

 では、どこに相違があるのか(もしくは無いのか)。
 しっぽ氏のレスから分かったのが、自分はルールにおいて「目的」(正しい根拠)と「原因」を別に捉えており、しっぽ氏は同じに捉えているということだった。相違は、「意思」にあるのか。
 ルールには、同じ感覚を共有した上での「目的」(正しい根拠)がある。感覚が違えば、その両者の間にそのルールが正しい根拠を作ることは不可能になる(「理論に理論を理由としていってもどこにもたどり着けない」)。
 正しい根拠、というものは最終的に「感覚」に行き着く。では、「感覚」はその人の意思によって作られたものなのか。そうではなく、「感覚」は、後天的なものなのか先天的なものなのか、自然環境による物なのか人間関係、社会的要因によるものなのか、などいろいろあるだろうが、結局はその人の意思とは別に「自然とそうなってしま」ったものである。



故障中

・・・・。プシュー(故障)

頭痛くなってきました。うーむ。

 人間が人間を殺すことを禁止してるのは、なんだかんだあって、人間が人間を殺す世界を望んでる人より、人間が人間を殺さない世界を望んでる人の方が多くなってしまったから(多くなろうとしたんじゃなくて、多くなってしまった)。
 それがルールという形になったのは、ホネ氏の言うことを借りれば、目玉焼きの醤油・ソース論争と違って、ルールという形で「人間が人間を殺す世界を望んでる人」にも同じ行動をさせなければ、自分達の利益が達成させられないから。
 
ということだろうか(初めにした質問への答えと、殆ど同じですが)。これは納得してるんだが。。


・・・・。プシュー、プシュー。(故障)

 すみません。なれないことやるもんじゃないと思いました。いちゃもんではなく、なんか納得できてない部分があるような気がするんですが、それが分かりません(そこが一番重要なのに)。ただ、考えていると「人を殺すことが悪いのは、人を殺すことが悪いからだ」と同意語反復のような気がするんです。はい。
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  by syakai21 | 2006-07-07 02:14 | 論評

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