・「アスキーアートの法と慣習」―アスキーアートの権利関係についてのエントリー(別館「犬が目覚めた日」)

     ・「連載物の保管庫」―上記の物をまとめたもの

現時点のに著作権に対する仮説と疑問点

・何故、AAイラストに対する権利は主張されるのか?そして、それが認められるのか?
・ソフトウェアは、何故自由だったのか?何故、不自由になったのか
・所有の主体には何があるか?

の仮説とその問題点。



何故、AAイラストに対する権利は主張されるのか?そして、それが認められるのか?


 前に調べたように、AAキャラクターのイラストを描いている人々は、その作品に対して権利を主張している。主張の内容は、「無断転載禁止」「二次利用禁止」が多く見られた(「商用利用禁止」も見られた)。

 一方AAの場合は、このような主張は少ししか発見できなかった。さらに、そような主張をした場
合、主張をした人物は批判の的となっていた。

 AAイラストの場合は、そのよう主張をしても議論にはなったが、「AA」のような批判は起きなかった。その議論が行われたのは、AA描きが集まるコミュニティスレである。(にたようなことは、AAキャラのゲームでもあった)

 「『無断転載禁止』というのは、『自分が書いたと偽るな』という意味ではないか」という指摘も頂いた。確かにそれなら、AAの場合でも批判を浴びていた。だが、「自分が書いたと偽る」ことのみが嫌なら、そう書くのではないか。また、AAの場合は複製権だけでなく、「翻案権」も間違いなく認められていない。「氏名表示権」や「商用利用禁止」も微妙なラインである。

 AAイラストとAAには、別の権利意識が働いていることは間違いないと思う。

その理由の仮説と仮説の問題点


  • イラストを書く場合は、他のイラストに依存することがほぼ無い。AAは、他のAAに依存する
    程度が高い。よって、権利を主張されても構わない。

    • 顔文字系(実際の絵をトレースしたもの。リアルなAA)や拡大AAは、他のAAに依存することがほぼ無いのでは?

  • イラストはAAより描くのに労力がいる。よって、権利を主張したいと思うようになる。

    • イラストも慣れた人は労力がかからないのでは?最近の技術インフレにより、AAにも労力がいるのでは?

  • イラストは、昔から権利が主張されるのが当たり前だった。AAは、昔から権利が主張されないのが当たり前だった。

    • それは、「AAが自由なのは、AAが自由だと決まっているからだ」と言ってるのと同じであり、意味のある答えでは無い。確かに、今の人々がAAは自由であると考えるのは、それ以前の人々がAAは自由であると考えたからだろう。だが、ここで問うべきは、その前の人(初めの人が)AAを自由であると考えるようになった原因である。AAイラストは権利を主張するようになった原因である

  • AAが自由なのではなく、2ちゃんねるに書き込まれたものが自由なのではないか

ソフトウェアは、何故自由だったのか?何故、不自由になったのか


 ソフトウェアの著作権が認められる1980年代まで、ソフトウェアは、自由に複製され、改変され、配布されていた。ソフトウェアは共有されべきものであった。

 1976年にビルゲイツが出した「ホビイストたちへの公開状」は、マイクロソフトのアルテアBASICを勝手に複製、配布していた人たちへあてた批判文・挑戦状である。だが、この手紙はホビイスト達にとって笑いの種にしかならなかった。手紙でソフトウェアの代金を払ってくれるよう求めているが、殆ど金は集まらなかった。

 この光景は、現在のAAの権利を主張する人と、それに反対する人々のやり取りを思い出させる。

その理由の仮説と仮説の問題点


自由だった理由

  • 法律ができるまで、ソフトウェアの著作権はあいまいだったから。
  • アメリカの著作権法は、本来は著作物を自由なものとしているから。その思想が一般的だから。
  • 創作者の利益の二代要素として、「名誉(名声)」と「富(お金)」が考えられる。ソフトウェアが商品となるまでは、「名誉(名声)」が主要な利益であり、そのためには自由に配布、複製された方がいいから。

    • では、なぜインターネットで公開しているイラストに著作権が主張されるのか?

  • ソフトウェアは、他社の存在に依存する程度が大きいから。

不自由になった理由

  • ソフトウェアが「商品」になったから。「商品」となると、自由に複製できる状態のままでは、利益を出すことができないから。

所有の主体には何があるか?


 著作権(共有財産)・AAを考える中で、「誰が」権利を持っているのか?という視点が必要だと思った。思いついたのは、次の4つ、「個人」「集団」「超集団」「パブリック」。

 「個人」(創作者・著作者)は、現在の著作権法が原則として採用している主体である。これは、法律面だけでなく、意識の面でも一般的である。例えば、ジャスラック批判の中で、作者本人が自由に使えないということが挙げられる。これは、著作者が権利の主体であるからこそ、出る批判だと思う。また、著作権の原理と現代著作権理論によると、「著作者の権利」としの「公表権、氏名表示権、剽窃を禁じる権利」というのは、「自然法という発想以前から当然のように認められてきたもの」であるという。

 「集団」は、AAで言うなんら「2ちゃんねる」や「あめぞう」、「あやしいわーるど」のことである。実際、ギコ猫騒動のときは「ギコ猫はあめぞう出身だ」「流行ったのは2chだ」などという会話がなされている。
 また、『2ちゃんねるで学ぶ著作権』にある次の会話から、2chに書き込まれたものは「個人」にのものではなく、2chのものという暗黙の了解があることが分かる。


:こういったAAって繰り返しコピペされますよね。
ひろゆき:だれかが作って、別の人がコピーしてまた貼る(書き込む)。同じスレッドだけでなく、 ほかのスレッドにも。
:それって問題ないのですか? 他人の著作物を、別の人が複製することになります。
ひろゆき:2ちゃんねる的には、オッケーですよー。
牧野:どこかに書いてあるんですか?
ひろゆき:暗黙の了解ですけど。あまりにも当たり前すぎて書いていなかったような……。2ちゃんねるに載ることに同意して書き込みしているので、それが2ちゃんねる内の別のところに載っても文句はないでしょう、ということです。


 法的な枠組みで言えば、最近言われている「フォークロア」がこれにあたる。

「超集団」というのは、何か特定の集団を超えた存在、つまり「みんな」が所有しているというという意味である。何か具体的な対象を考えているわけではなく、抽象的な観念としての「みんな」をさしている。
「AAは皆のものだ」というのがこれにあたる。また、犬が眠った日 :共有財産と公有財産―2chに金を払う日は来るのかの「共有財産」のことである。

「パブリック」というのは、パブリックドメインのことを指しており、所有の主体がいない状態のことである。「だれのものでもない」という言葉で表される。犬が眠った日 :共有財産と公有財産―2chに金を払う日は来るのかの「公有財産」のことである。

ある作品の権利意識は、この4つの要素が互いに影響しあって決まるのではないか。

仮説の問題点


 ある方から受けた指摘だが、「『超集団』と『パブリック』の違いが分かりにくい」、「超集団というのは、無意識的な「集団」のことではないか」のような趣旨のことを頂いた。
 その時は同意した。だが、現在のところ、後者に関しては確かにそのような人もいるだろうが、「超集団」の存在を無くすのに抵抗感を感じる。考える必要のあるところ。
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  by syakai21 | 2007-03-01 02:49 | メモ

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